自由研究「文字」・A2

書体 ― 概論


2004/02/29-2004/03/31
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目次


●字体・書体
 字体、書体などの用語に公式の定義はない。学術用語と言う訳でもないので、学会の定義がある訳でもないし、官公庁が所管する分野でもない。
 公式文書としては、日本工業規格(JIS)の規格票(JIS X 0208:1997)が以下のように定義している。

字体
図形文字の図形表現としての形状についての抽象的概念。
字形
字体を,手書き,印字,画面表示などによって実際に図形として表現したもの。

 JIS規格の制定に関与した伊藤英俊は、自著「漢字文化とコンピュータ」(中公PC新書 9、中央公論社 1996年)の中で以下のように用語を定義しているが、これはJIS規格票の定義とほぼ同じ内容で、同じ定義を平易に書き直したものだろう。

字体
文字の骨格をなす点画の組み合わせをいう。
書体
文字の共通の肉付けの状態をいう。すなわち同じコンセプトに基づいてデザインされた共通 の字形表現方法をいう。たとえば和文では、明朝体、楷書体、勘亭流など、欧文ではタイムズローマン、ヘルベチカなど。
字形
具体的に表現された個々の文字の形をいう。大きさまで含まれる。たとえば、漢という字体を明朝体の9ポイントで表した字形が「」である。

 ちなみに、広辞苑(第四版)(岩波書店 1991年)では次のように定義している。

字体
それぞれの文字が、それによって他の文字と区別される特徴的な形。字形。一つの字についても、字画の違いによって、新字・旧字、正字・俗字などと区別する。→書体
書体
(1)字体を基礎に、文字を表す様式・特徴・傾向などが一貫して形成されたもの。漢字の楷書・行書・草書、活字の清朝(せいちょう)・明朝(みんちょう)・宋朝(そうちょう)、或いはイタリック・ローマンなどの種類をいう。
(2)文字の書き表わし方。書きぶり。書風。
字形
文字の形。

 書道の世界では書体と字体を区別せず、あるいは逆の意味に使用する場合もあるようだ。
 本論では以下のように用語を定義することとする。

用語 英語 用法の定義
字体 glyph 文字を構成する線や点のつながり具合
書体 font 統一されたデザインで表現された文字の集合。一定の表現上のルールをもって一群の文字を表したもの。
字形 character 1つ1つの文字の実際に示された(表現された)形

 英文書体ではこの他に「スタイル」という用語がある。これはボールド(太字)、下線付き、アウトライン(中抜き)など、一定のルールによる文字の修飾である。このスタイルにはイタリック体(斜体)を入れるのが普通だが、上記の定義によれば別書体である。日本語の斜体は写植文字の場合であれば変形レンズを使用して斜に引き延ばしたような文字となるが、アルファベットのイタリック体は、基になる書体の特徴を引き継いではいるものの、字形の詳細を異にする別の書体となる。このような、基の書体と関連した一群の書体をフォント・ファミリーと呼ぶことがある。このフォント・ファミリーという概念は日本語書体にもあり、太さ(ウエイト)の異なる同系の書体をまとめて呼ぶ。場合によっては明朝体とゴチック体のような別書体であっても、同一のコンセプトでデザインされている場合は同じファミリーとしてまとめて扱うこともある。


fig. 1 フォント・ファミリーの違いによるデザインの違い。
各種のウエイトの「DFP平成ゴチック体」を重ね、その輪郭を黒線で表示し、さらに「MS明朝」の輪郭を赤線で重ねた。同じファミリー間では対応するエレメントが規則的に重なっているのに対し、赤線で示した「MS明朝」は輪郭が異なることが分かる。また「ミ」の第1画の角度や「リ」の画の起始部の形など、デザインが異なることが見て取れる。

用語 英語 用法の定義
フォント・ファミリー font family 共通したコンセプトに基づいてデザインされた一群の書体
スタイル style ボールド、コンデンス、アンダーライン、アウトラインなど、一定の規則に従ってフォントを変型させる方法

●筆記書体
 「書く」という行為は目的をもってなされるのが普通である。目的は伝達であるが、内容や対象により選ばれる書体は異なる。単に筆記書体と言った場合、現代で言うディスプレイ・フォント相当する装飾書体も含まれることになる。例えば、相撲文字、寄席文字、勘亭流、ひげ文字と言った書体がそうだが、用途が異なれば別の書体があると言った具合で、際限がない。ここでは、過去から現在までに公式文書や私信など、日常生活に広く使用された書体に限って概説したい。装飾文字に関しては、機会があれば別に取りあげるつもりである。
 私は以前、根拠もなく漠然と「書は篆書から隷書が、さらに隷書から楷書が成立し、その楷書が崩れて行書、草書となった」と思い込んでいた。字形から連想したものかも知れないし、学校の授業での教育の順序が影響したのかも知れない。しかし、実際はそれほど単純に発生したものでなく、資料により発生に関する記述が異なる。草書は既に篆書の時代から発生が始まっていたらしく、草書は楷書と平行して発達して行ったと言っても良いらしい。楷書が最も後に成立したとするものもある[A-2]
 筆記書体として現在一般的に使用されているのは楷書・行書ということになろう。しかし、厳密に述べると現在「楷書」と呼ばれているものは伝統的な楷書と異なり、明朝体(活字)の影響を強く受けている。以下これを仮に「現楷書」と呼ぼう。行書もまた伝統的な行書とは異なり、現楷書を崩したものとなっている。
 まずは取り敢えず、各書体を説明しておく。なお、書体の例はいずれも水野栗原:著「常用漢字五体 現代千字文」(日貿出版社 1986年)[B-6]から引用した。ちなみに、この本で著者は「標準字体に関する私察」の1項を特別 に設け、現代の漢字教育を批判している。

篆書
(てんしょ)

象形文字の雰囲気を多く残し、装飾的で曲線に富む。「しんにょう」は他の書体では繞(にょう)であっても、篆書では偏(へん)である。

隷書
(れいしょ)
やや横長にデザインされている。横画のハライ(波磔)に特徴がある。波磔は1文字に1ヵ所と決まっている。楷書の右ハライは隷書から受け継いだとのことである。
草書
(そうしょ)
ひらがなの元にもなった書体である。省略が多く、速記に適している。慣れないと判読が難しい。字形が楷書と大きく異なるものがあり(右の例の「無」など)、篆書に起源を持つと考えられている。
行書
(ぎょうしょ)
楷書をやや崩した形の書体である。少々省略がある。
楷書
(かいしょ)
現在標準的に用いられている字体である。隷書と同じく、右ハライの重なりを嫌う。

 各書体の成立の順序であるが、手軽な資料として手元の漢和辞典を見ても解説が異なっている。木村秀次・黒澤弘光:著「大修館現代漢和辞典」(大修館書店 1996年)[D-6]では漢代(206BC-220)に隷書から発生した草隷が草書の始まりとしている(p1311)が、貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍:編「角川漢和中辞典 第99版」(角川書店 1969年)[D-1](30年も前の版であるが)では「晋(*)ごろには草書があらわれた」(p1275)としている。更に、新村出:編「広辞苑 第4版」(岩波書店 1993年)[D-3]では草書を「書体の一で、篆隷を簡略にしたもの。俗に行書を更にくずし、点画を略したものをいう。」としているが、藤堂明保は「行書と今日のいわゆる草書(漢の草隷ではない)は、楷書をさらにくずしたもので、魏・晋・南北朝に至って流行し(後略)」[A-1]としている。こうなると、何を草書と呼ぶかが先ず問題になってくる。楷書に関しては、筒井茂徳は「楷書は最も遅く成立した正式書体」[A-2]であるとしており、徐々に発生し時を追って変化する各書体の成立に順序をつけること自体がそもそも無理なのかも知れない。
 また、楷書という字体の成立と「楷書」という名称の成立は別の現象であるということが、成立順序の混乱を助長しているような気がする。竹村真一:著「明朝体の歴史」(思文閣出版 1986)(*) [B-7]によれば、楷とは書体を指す言葉ではなく、楷書は隷書の一部として発展したとの事である。少し長くなるが、以下に同書を引用する。
「秦では篆書を楷、漢では八分を楷といって書体の名ではなく、ただ格式のある書の意味であり、唐代に至って初めて厳正に書体の名として楷書と呼ぶようになった。つまり唐の時代までは楷書という書はなかったということになる。」(p46, [B-7]
「楷書は三国時代から六朝時代に早く書く必要から隷体より変化した書体で、最初は今隷という名で隷書のなかまであった。[中略]この今隷といった時代は隷意を持っていて、六朝時代にも書かれたが、晋代の維摩詰経(568-572)を見ると、この時代には楷書が成り立っていたことがわかる。そして随・唐に至って今の楷書に完成した。このように楷書の形に変化していっても、唐の時代までは依然として隷と呼ばれ、明確に楷書といわれたのは宋代以後のこととされている。」(pp45-46, [B-7]
 上記の引用からは唐代における楷書の位置付けがはっきりしないが、唐代に楷書と『呼ばれ始められた』ということであろう。
 しかし、字体としての楷書の成立に限って言えば、現存する資料も多いことからほぼ確定しているようで、多くの資料が漢代(大修館では後漢(25-220)末、角川では「漢の半ばごろから」)に発し、随[A-2](581-618)(*)、遅くも唐代(618-907)には完成したとしている。

 さらに、明朝体とそっくりな筆記体もあった。次項で詳述するが、明朝体は版本において発生し発展した書体である。その版下は毛筆で筆記したもので、その版下の書体が版下以外の一般 の筆記にも用いられていたのである[B-7]。

●活字書体
 活字にも筆記書体と同じく装飾書体と本文組み用書体がある。ここでは装飾書体には触れず、本文組みに用いられる書体に限って話を進める。
 本文用活字には、明朝体(みんちょうたい)、ゴチック体、宋朝体、教科書体など、様々な書体がある。

書体 文字の例 説明
明朝体

本や新聞の本文など最も一般的に使用されている活字体。康煕字典の本文もこの種の活字で組まれている。

ゴチック体 見出しなど強調効果を狙って使用される。丸ゴチック体と区別するため「角ゴチック体」とも呼ばれる。
丸ゴチック体 装飾的な処理が行なわれているので、明朝体とは字形が大きく異なることがある。

宋朝体

版刻文字の刀の線を生かした書体と言われる。

教科書体

楷書を基にした日本独自の比較的新しい書体。楷書体とは異なる。活字が教科書に使用されたのは昭和10年の国定教科書「小学国語読本」巻5が初めて([A-5], p56; [B-5], p53)。

上の表の活字の例には「DynaFont プレミアム54書体パック for PS-Printers」(ダイナラブ・ジャパン株式会社社)の各書体を使用した(*)。明朝体:DFP平成明朝体W7、ゴチック体:DFP平成ゴシック体W3、丸ゴチック体:DFP中丸ゴシック体、宋朝体:DFP新宋体、教科書体:DFP教科書体W4


 明朝体は楷書を基にしてデザインされたと考えられるが、以下のようなデザイン的な特徴がある(*)

ただし、少数ではあるが隷書を基にしてデザインされたと考えられる文字もある。「也」や、後に触れる「しんにょう」、さらには(旧字体の)「示へん」である。

 「明朝体(*)の成立」といった場合、漢字書体の成立もさることながら、漢字に適合した片仮名と平仮名の成立と発展を抜きにして語る訳にはいかない。また、漢字の字体も日本独自の発達をして、現在の明朝体が完成している。明朝体について記述している成書でも、[B-2], [B-5], [B-14]などでは漢字活字の日本伝来から平仮名の開発、漢字の改良などについて中心的に記述されており、漢字明朝書体そのものの出現に関する記述は少ない。本自由研究は漢字書体の成立が主題であるので、これは非常に困ったことであった。だが、その中で、竹村真一:著「明朝体の歴史」[B-7]は版本の歴史を中心に置くことで漢字書体の発達について記述してあり、資料として有用であった(*)。以下は[B-7]に記載の事項のみに拠るところが大きい。

●版本書体
 木板に文字を彫刻して印刷する版本は、1400年代(明代前半)までは楷書を版下として彫刻されていた。いつ頃からかは不明であるが、出版(開版)点数の増加に伴い彫刻の分業化が起こり、縦画と横画を別 の刻工が彫るなどされるようになり、楷書の筆遣いが単純化されて彫刻されるようになった。また、版下を書く側にも版下独特の筆法が生まれ(竹村はこれを『明朝体楷書』と呼ぶ([B-7], p104))、これが明朝体になっていったと考えられる。1500年代(明代中期)からは、いわゆる明朝体に近い書体の版本が数多く出現する。
 例えば、楷書の横画終端の膨らみを様式化したと述べられることがある「ウロコ」であるが、竹村[B-7]によれば、これは横画の終筆を跳ね上げる(または上に抜く)筆法から生じたもので、単に楷書を様式化したものではない。彼は版本におけるウロコの形体を9つに分類しており([B-7], p178)、その基礎になっているのが『明朝体楷書』の存在である。

 福建省出身の中国僧・隠元(1592-1672)は1654年に来日し、禅宗の一派である黄檗宗を広め、同時期に渡来した僧と共に芸術・文化に大きな影響力を持っていた。彼が建てた黄檗山万福寺には開山当時の黄檗僧の墨跡が数多く伝えられているが、その中に『明朝体楷書』が多数存在する。これは当時の中国の状況を直接反映しているものとみなすことができる。版本は圧倒的に宗教関係のものが多く、また、当時は宗教すなわち学問でもあったので、僧の字体は版本全体の字体の形成に非常に強い影響力を持ったと思われる。
 以下に同書p107から写真を引用する。

fig1-1 木庵60歳の寿章(万寿院蔵)
書者は不明だが竹村の推測では南源。
木庵(1611-1684)の生没年からみて1670年頃のものと考えられる。

fig1-2 隠元70歳の本山両序の寿章(文華殿蔵)の中の月潭の書
隠元(1592-1672)の生没年からみて1660年頃のものと考えられる。
fig1-3 同上寿章の中の大眉の書

 これらの写真に現れた文字を見ると、いくつかのことに気付く。

 唐代には既に楷書は書体として確立し、しんにょうや示へんの形(「ネ」形)もほぼ確立していたが、その後の版本の発達過程で楷書に隷書の字形が取り入れられ明朝体が生じて行ったと考えられる。これはしんにょうについては楷書の彫刻しにくい不安定な形から、直線的で単純な形へとの変化であろう。示へんの「ネ」から「示」への変化は「正しい字形はかくあるべき」といったドグマチックなものであったかもしれない。あるいは、版本の版下となる書体が楷書である必然性はなく、隷書であってもかまわなかった訳で、これらの僧は、無論のこと楷書・行書・草書・隷書に通 じていたであろうから、水平・垂直の線の多い隷書を取り入れつつ新しい書体を創作していったのかもしれない。禺の足の形の変化は、単に彫刻の手間を省くためだけだったのではないかと想像する。様々な思惑が交錯し書体が引き継がれて行く間に徐々に明朝体が形成されていったが、その中心にあるのが版本と仏教であろう。

 私は楷書・隷書・明朝体におけるしんにょうの各部分の対応を下図のように推測している。


fig1-4
楷書・隷書・明朝体における各部分の対応
同じ色が対応する部分を表す

この推測を直接証明するには至らなかったが、推測の妥当性を示唆するデータが得られたと考える。

●標準字体
 現在まで、日本の標準字体は明朝体で公表されるのが通例であった。「JIS漢字字典」[D-7]は明朝体で表示しているものの、使用した「ヒラギノ明朝体」と「平成明朝体」のデザインの差について詳細に記述してあり、字体に関する議論を踏まえて出版されたものであることがよくわかる。

●活字のように書くこと
 活字とはあくまでも個人あるいは集団のデザイナーがデザインしたものなのであるが、まるで「正しいもの」として与えられているかのように錯覚し、活字のように書く人が増えている。また、活字のデザインの些細な相違についてこだわる人が増えている[p239, A-101][A-102]。これは学校での漢字教育にも問題があると考える。「木偏ははねないが手偏ははねる」といった些末な漢字教育が成されるため、活字を手本とし、活字のように書くことで、誤字の指摘を防ごうとするのであろう。
 我々が主に接するのが印刷物になったということも関係するかもしれない。
 何千年もの間、漢字圏では文字を筆で書き記してきた。楷書は紙に筆で書くことに最適化された文字である。縦画終端のハネは筆勢にも左右される事象であり、字の「正しさ」とは直接関係がない場合がある。また、活字は独自の発展をし、明朝体となった。活字と手書きの文字(活字体と筆記体?)の間には字形の相違があることは、つい最近まで常識だったはずだ。現在でも書道を学ぶ人々にとっては常識のはずである。それが今、崩されようとしている。

 さらに、昔ならば「し」を「」、「く」を「久」、「か」を「」と書くことは教養であった。「田」を「」と書いたり「喜」を「」と書いたり「世」を「世」と書くのはおしゃれであった。現代では、筆で書くことのみならず、書くことそのものの伝統を破壊しようとする漢字教育が(一部で)行なわれている。

●書の行方
 漢字やかなを理解するには書道の知識が必要である。勿論、字の意味を覚えたり、形を判別 したりするという意味での「理解」には書の知識は必須ではない。だが、字の美しさを味わったり、バランスの良い字を書こうとしたり、字のデザイン(レタリング)をするには書の知識が必要である。字あるいはその書き手と心を通 わせるため、個々の字の存在自体を深く「理解」することは、その字を実際に「書く」ことと切り離せないのである。読者の同意が得られ易いと考えられる、ひらがなで例を挙げれば、

などのことは、ひらがなの成り立ちを考え、また、実際に書き慣れることで、自信を持って「どちらでも良い」と言えるのだと思う(「ふ」の例はタイポスという非常に人気の高い字体を教科書だか絵本だかに採用するにあってもめたことが実際にあると聞いている)。漢字になると、簡単に全員の同意は得られないだろうと思うが、「右」や「左」の筆順、「女」の左払いの頭を出すか出さないかなど、漢字の成り立ち、過去のデータ、現在の漢字圏での状況などの検証により議論すべき、という点では同意していただけるのではないか。その点では、現在の学校教育やJISやUnicodeを巡る議論の一部は非常に貧弱である。
  また、人々が書くことから離れ、楷書の伝統が薄れていけば、筆記体と活字体とは違うという常識が常識でなくなり、現在の活字の字形を巡る混乱が更に助長されるのではないかと危惧している。
 しかし、我々がますます筆書から遠ざかる将来には、硬筆、横書きを基準にした日本字、さらには書くことと切り離された日本字の概念が必要となってくるかもしれない。


参考文献


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